ライトハウス デザイン コミュニティ
デザインが生じる瞬間
何をデザインという言葉と紐付けているかは、人によってさまざまでしょう。Photoshopで華麗なグラフィックを作ることや、リサーチを行って最適なプロダクトを設計すること。あるいは、生活、人の営みそのものをデザインと呼ぶ場合もあると思います。そんな中でデザインを定義する、などという大仰なことができるのかは分かりませんが、私個人の見解から始め、ふんわりとしたデザインの姿に少しシャープネスをかけてみることにしましょう。
私にとって、デザインという言葉の示すものは、先ほど申し上げた「人の営み」に近いものであると考えています。“あるイメージ”を具現化することで未来を変えうる人の営み。そのようなデザインは必ずしも、デザイナーのみが行う行為ではありません。しかしデザインを職業とする人は、その場にこれから生成されるべきもの(デザインの気配)を素早く察知して形にすることができたり、あるいは状況が望ましくない方向へ向かっていたり、停滞している時には、自らのイメージを形にして“上書き”することで、新しい道や別の選択肢を作ったりするものであると考えています。
とはいえ、そのような広大で茫漠たる話に終始することは、およそ現在、デザインを生きる糧にしている私たちにとっては意味のないことだと思われます。少し身近なところで、近年のデザイナーという職業についてと、その職能の受け取られ方がどのように変化してきたのかを考えてみます。
そもそも、デザイナーがある完成形に近いデザイン=具体的な造形物を自ら作り上げるというのは、比較的最近になってから、それも主にデジタル化の恩恵を受けたグラフィックデザインやWebデザインにおける状況であることは留意しておきたいポイントです。シミュレーションが可能になりデータから立体物を出力できるようになったという意味では、3Dソフトウェアが普及した以降のプロダクトデザインにも、同じような流れはあるかもしれません。
この2~30年で制作環境の変化が大きかったグラフィックデザインを軸に、少し時代をさかのぼってみます。
1980年頃に出版されたデザイン関連の専門誌・書籍を開いてみると、いまや往年のデザイナーたちが若々しい姿で机に向かい、紙と定規、烏口、指定を書き込むトレーシングペーパーなどに向かい合っている姿が見られます。すごくパリッとしたスーツを着ていたり、ポーズがキマっていたり……写真にはいくらか演出が感じられる部分もありますが、デザイナーという仕事が特別なものであったことも垣間見られます。いや、スタイルのことはひとまず脇に置いて、注目したいのはデザインの手法です。
デジタル環境へと移行する前のグラフィックデザインの制作環境は、みずから手で描くという行為と、専門的な人の手を借りることを通じて行われています。Illustratorでバランスを見ながらテキストを配置したり、Photoshopで写真を加工するようなことはなく、文字や写真を扱うのにも専門の職業がありました。
デザイナーのすることと言えば、グラフィックや図版、時にはイラストレーションを作成したりもしながら、「指定紙を書く」こと。指定紙を通して、写真の撮影や分解を行う専門家、写植の職人、製版の担当者などに共通のイメージを伝えます。この時点ではもちろん最終的なデザインは完成していませんが、私はデザインが産声を上げるのは、まだ定着までの可能性を孕んだ指定紙の上なのではないか、と考えています。
現在は、ともすればデータの完成する時が、グラフィックデザインの成立する瞬間と見られることが増えてきました。つまり納品物を作ることがデザインである、と。しかし、建築における意匠・設計と施工や、ファッションでデザイナーとパタンナー・縫製、アニメーションの絵コンテを切る監督とアニメーターが異なる技能のように、そこには本来、異なる複数の技能者によって“あるイメージ”を実現するという工程があります。そのオペレーションの部分を人間ではなくソフトウェアが補っているとはいえ、デザインが見出される瞬間は、(グラフィックデザインにおいては)やはりこの「指定紙を書く」ような、関わる人々の間でイメージが共有されるタイミングにあるような気がしてなりません。
イメージの共有について考えている時、思い浮かべるものに「子どものいたずら」があります。
例えば、日本の伝統的な子どものいたずらの様式のひとつ、「黒板消し落とし」を例にしてみましょう。教室のドアに黒板消しを挟んでターゲット(主に先生の場合が多い)を待ち伏せし、ターゲットがドアを開くと黒板消しが落ちてきてスコーンと頭に当たるとともにチョークまみれになる、というものですが、これをデザイン的な行為として分析してみるとどうでしょうか。
仮にいたずらの実行者を生徒Aとします。生徒Aがいたずらを思い立ち、手順を考え、結果を頭の中でシミュレーションします。彼の頭には、刺激的な成功結果のイメージと、賭けのようなドキドキ感があることでしょう。次に実行に移すための道具を集め、セッティングします。このとき、状況がパブリックな(無言のうちに共有される)状態になります。特にこのような単純で典型的ないたずらであれば、周りの生徒も、生徒Aの考えていることをありありと知ることができるはずです。この仕掛けた瞬間、彼のイメージが現実世界に表れ、周囲に共有されます。そこで良識のある別の生徒から止められることもあるかもしれません。それを抑えることができ、大多数が彼のイメージに応じて席に、座って緊張しながら結果が訪れるのを待つことで、場のセッティングが完成します。あとは結果とフィードバックを待つのみです。
このいたずらをデザインと重ね合わせてみてみると、それが成功するかしないかの前に、起こる結果、未来の予感にその場にいる人の視線が向けられるというところで、まず有効に機能していると考えられます。日常的に進行するはずの空間をブラックボックスに突っ込み、ある“ふるまい”から、未来のイメージを共有できるように上書きしてしまう。
私が「デザイン」について考える時、その根源的な部分は、乱暴に言えば先述したような「いたずら」と変わりありません。
あるイメージを社会の中に具現化したいという思いと、そのイメージを共有し、さまざまな人と道具の力を借り、協力して制作すること。そして、結果が未来を何かしら変えるという可能性を信じて行われること。改めて冒頭に戻りますが、デザインとは何なのかを自分なりに定義するならば「“あるイメージ”を具現化することで未来を変えうる人の営み」に他ならないと思います。数分後でも、数年先でも、あるいは自分が死んだ後に残るものでも……まだ未確定の世界を、より理想に近づくように上書きして見せるための技能。
現在は、ソフトウェアにサポートされているとはいえ、デザインする自分と、頭の中の指定紙を受け取って作業するオペレーターの自分という複数の役割を一人のデザイナーがこなさなければならなくなってきました。そのオペレーションに腐心していると、デザインが生まれた時のイメージが揺らいでいってしまうこともあるでしょう。しかし、デザインに携わる者であるならば、作業の前にまず強いイメージを抱くこと、ありありと未来をイメージすることこそを大事にしたいものです。